思い悩んだら読むこと

私には3つ下の妹がいる。
妹は、知的障害を持って生まれてきた。
 
やはり普通の人とは違って出来ないことも多く、両親の目は必然的に
妹に注がれることが多かった。
それは時に寂しくもあった。
しかし一方で、妹の面倒を見てくれた大人の人たちは、みんなみんな優しくて
私にも優しくしてくれて、幼いながら
「なんでこんなに人に優しくできるのかな」と尊敬の念を抱いていた。
 
私は今26歳なので、いわゆるゆとり教育の全盛期に育ってきた世代である。
よく覚えている。当時そろばん教室に通っていたのだが、いきなりそろばんの問題が簡単なものに変わったことを。指導要領が変わり、教科書も変わり、土曜日は完全に休みになった。
周りが喜んでいた中、自分はそろばんに情熱を注いでいたのに、いきなり問題を簡単にされて憤りを感じていた。
 
それから私たちはゆとり世代と呼ばれ、揶揄されたり疎まれたりすることが多かった。
ゴールデンタイムの番組で「ゆとり世代はこんな常識はずれな行動をとるから気をつけろ!」という特集がされていたり(そこで放送されていたことは何ひとつやったことはない)、ゆとり世代は就職できない、ゆとり世代に生まれて可哀想だなど色々言われてきた。
私はそれが辛くとても悲しかった。ゆとり教育なんて1ミリも望んでいなかったのに、どうしてこうも言われなくてはならないのかと。。
当時の日本は、決められない政治だとか、トップがコロコロ変わったりして、政治や社会に良いイメージがなかった。投票権のない当時の私にとっては、みんながみんな責任転嫁をしているようで、見ていてとてもイライラしていた気がする。日本人って自分勝手だなと。
 
そんな中、高校3年生で大学受験を控えていた。国語が好きで国語の教員を目指していた私は、教育学部や文学部を受験したが、うまくいかなかった。国立大学の後期試験まで粘っていて、東京の大学を受けるために前日から東京のホテルに泊まろうとひとり電車で移動していた、2011年3月11日14時46分。電車の中で大きな地震が起きた。電車から追い出され、改札を出され、「もう電車は動きません」と言われた。
頭が真っ白になった。家も帰れない、ホテルにも行けない、しかも私は今ひとりだ。ひとりでパニックになった、しかし、パニックになったのは私だけではない、その場にいた人たちみんながパニックになっていた。倒れて担架で運ばれる人、警察に何とかしろよと怒鳴る人、バスもタクシーも公衆電話も尋常じゃない列だった。今みたいにスマホでマップをひらくこともできない、両親に連絡もとれない
とりあえず、東京に向かって歩くことに決めた私はその後7時間くらい歩きまわった。しかし、今自分がどこにいるか定かではなく、絶望に満ち溢れていた。寒すぎて、割と本気でこのまま死ぬんじゃないかなんて思った。その時、たまたま見つけた個人経営のガソリンスタンドでお願いして少し休ませてもらうことができた。そこには、大きいテレビが置いてあって、今までみたことのない規模の津波の映像が流れていた。今でも思い出すだけで気持ち悪くなる。
これからどうしようか考えていた時、たまたまガソリンを入れにきていたお客さんが私に、「娘の部屋があるから泊まりにくるかい?」と言ってくれた。私は、何も疑う余裕もなく、お言葉に甘えさせてもらった。そこの家は天国だった、暖かいご飯を食べさせてくれ、お風呂も、お布団もあった。やっと実家に連絡がとれた時実家は停電していた。
暖かいご飯、お風呂の有り難みを痛いほど感じた。そして何より、声をかけてくれた方への感謝で胸がいっぱいだった。
その時、今までの日本人のイメージがガラッと変わった。こんなに切羽詰まった状況なのに、私に救いの手をさしのべてくれた。なんて優しいんだと。。。
一方で、日本にあの規模の災害や事件が起きた時にどうすればいいのかと疑問に思った。色々と調べていくうちに、日本には社会問題が多数存在しており、課題先進国なんて言われていることもわかった。自分も、その問題解決ができるようになりたい、そう思い浪人して公共政策が学べる大学に入学することになった。
 
そして就職で上京することになった。社会問題を色々な角度や分野から勉強した中でやはり目がいくのが福祉分野であった。したがって、大手在宅介護サービス会社の本社営業部として就職することにした。
 
週4日はケアマネジャーに飛び込み営業し、週1日は介護現場に従事する。そんな働き方。1日20件30件の飛び込み営業も何だかんだ楽しかった。2ヶ月で売り上げ2.5倍に増やして新規事業所開設の営業もやらせてもらったり、有料老人ホームの営業など様々な経験をさせてもらった。
しかし、担当の拠点の人手はどこも足りず、現場の人たちはみんな休めていなかった。。月4日とか5日とか。。休めず、身体を壊して辞めていく、そんな光景を何度も目にした。もっと言うと、私が営業して仕事をとってくると現場が休みをとれなくなり、身体を壊して辞めてしまう。。原因を私がつくっていたと思っていた。しかし、人手が足りないので仕事を取ってこれませんなんて言えるわけではない。それが私の中でとても辛かった。
ある時、辛い気持ちがピークを超えた。いつも通り営業に出るとなぜか涙が止まらない。目が回り始め、立っていられず、道端で倒れて緊急搬送される。そんな日が続いた。さすがにおかしいと思い、病院にお世話になることに。「メニエール病」と「うつ病」という診断をもらい、ドクターストップがでた。
そこからおよそ1ヶ月。療養中の1ヶ月はほとんど記憶がない。薬が15種類くらい出て、とりあえず薬を飲む。外に出るだけでめまいがするから通院以外外に出ない。耳も聞こえない。辛いとか悲しいとかを通り越して何も考えられなかった。
 
1ヶ月もたつと少しずつ体調は良くなってきた。仕事に復帰する準備をしていたが、介護現場における人手不足にとても課題意識を持っていた。現場にも従事していたので、介護の仕事の必要性が痛いほどわかっていた。しかし、人手が足りずに休めない。。しかも現場の人たちはみんな優しくて、自分を犠牲にしてまで利用者のことを考えて頑張ってしまう。。私はそんな現場で働いている人たちが報われてほしい。もっとこの仕事に従事する人を増やす仕事がしたいと。
そう思っていた矢先、たまたまよくしてくださっていたケアマネジャーからご飯のお誘いをいただいた。そして、人手を増やす仕事がしたいと話をしたら、何とうちでやってほしいと言ってもらい、転職して今に至る。
 
以上のことから、私が実現していきたいことはコチラ↓
 
☆介護事業所の採用力を上げていくこと
☆介護業界に関心を持つ若手を増やす
☆介護現場に本当に必要なICTを開発する
⇒会社で実際に実務として担っています
 
☆現場の人が報われるように制度や政策を変える
⇒政治家とタッグを組んで取り組んでいます
 
☆日本社会の構造、問題、歴史を勉強し発信できるようになる
☆故郷である群馬県での地域活性に貢献する
障がい者が活躍できる場をつくりあげる
⇒yentaなどのご縁でチームをつくり取り組んでいます
 
全部ご縁をいただき、少しずつ動きをスタートしている。
ありがたい話だ。私は非常に環境や運に恵まれていると思う。
 
確かに両親の目は妹に向くことが多かったが、そのぶん経済的支援を私にくれた。
妹は、これがやりたいとか、あれがほしいとか、自ら発信することができない。
私は、それができる。だから、やれるだけやるんだ。